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チャーリーワッツ(ローリングストーンズ)

2021年8月24日、彼は逝ってしまった。
史上最大で最長のロックバンド、「ローリングストーンズ」のドラマー、チャーリーワッツ80歳である。

今は日本ではロックという音楽ジャンルは、我々(あえて我々と呼ぶ)にしか通用しない言葉といっても良い。
デジタルエンターテイメントやコンテンツの進化・乱出により、音楽のジャンルは迷走し、どうでもよくなり(失礼な言い方になってしまったが)
ロックンロールというモノに若者は一切興味がないため、この言葉自体が陳腐で、言ってしまえばダサイ死語になってしまった。

1950年代に、アメリカの黒人音楽であるJAZZやブルース、カントリーミュージックを起源とし、1960年代以降、特にイギリスやアメリカ合衆国で、
幅広く多様な様式へと展開したロックンロールミュージック。
また、サンフランシスコから広がったヒッピームーブメントやカウンターカルチャーなどの社会運動が高揚した時代と同時期に絶頂を迎えた。
その音楽をイギリスで全世界に送り出したのが、主にビートルズとローリングストーンズである。(あえて他の音楽家は除く)

ご存じのようにビートルズは1962年10月にイギリスのリパプールでデビュー。
しかし、1970年4月に解散してしまう。
一方、ストーンズは、ビートルズと同年の1962年4月にロンドンで誕生。
世界を英国産のロックンロールミュージックで魅了したこの2つのバンドはビートルズのわずか8年の活動に対して、ストーンズは
今日まで51年間以上活動している。

ビートルズはジョンレノンとポールマッカートニーの2人のフロントマンのうち1人が亡くなってしまうという悲劇に見舞われたせいもあるが、
とにかく一度は不仲により解散している。
しかし、ストーンズは喧嘩や、事故、メンバーの逮捕などあっても、活動を止めたりはしなかった。
ボーカルのミックジャガーとギターのキースリチャーズは50年間も初期と変わらずロックをしている。

そのロックのカリスマ2人を50年、支え続けたのが、ドラムのチャールズ・ロバート。ワッツ(チャーリーワッツ)であることは、
周知の事実であり、チャーリーがいなければ、ストーンズはこんなに長く続かなかったであろう。

我々世代間では、ローリングストーンズといえばミックジャガーとキースリチャーズだとまず考えるだろう。
しかし、喧嘩ばかりの子供のような2人を、お兄さんの様に暖かく取り結んできたのはまぎれもなくチャーリワッツだ。

従って、チャーリーこそがストーンズなのだと言い切るファンも多い。私もそのひとりだ。

私は彼らの代表曲「サティスファクション(1965年)」がリリースされた歳に生まれたという自負がある。

ロックとほぼ同時期に誕生し、ロックに育てられた。

ロックとは音楽ジャンルではなく、「生き方」なのだと教えられた。

僕はローリングストーンズに育てられた。

R・I・P
Charlie Watts

2021.9.5



山下達郎(ミュージシャン)

誰もが、というより自分は、最も大事にしているものについて語りたがらない性質がある。
ほどほどに好きだったり、近いものについては書くことも語ることも容易なのだが、本当に大切なものというのは自分自身の骨格を形成していて、
本質でもあるため、容易に語ることはためらってしまう。

しかし今回は長年語ることがなかった一番大事な部分について1つ述べてみることにした。
それはやはり人であり、現存していまも活躍している人である。
過去のコラムには故人ばかりあげてきたが、この人は現役である。
「山下達郎」というミュージシャンで、ちょっとは誰もが耳にしたことがある名前だろう。
しかし山下達郎は19 歳当時大学生でありながらマイナーデビューし、現在メジャーデビューから44 年を迎えながらあまりにも多いヒット曲
を算出している。にも関わらずメディアに出ることが一切ないため、誰も動いたり演奏する彼の姿を見たものはいない。
(自分はツアーで追っかけをしているので毎年何度も観るのだが・・)

さ てとどこから何を書けばいいのか迷う。まあわかりやすく言うと自分の師匠だと考えている。
第一の共通点は、子供時代から洋楽が好きで、日本の歌謡曲には耳を傾けず、ひたすら数少ないラジオチャンネルや洋楽レコード屋に通って
オールでディーズを貪ったと言う数奇な少年時代を過ごして来た点にある。
そしてそれは歳を何十年過ぎても変わらず探求し続けていると言う部分でもあるし。日本の多くの人が山下達郎
と言えばCM ソングや情報番組や映画のタイアップソングを手がけている人、もしくは「クリスマスイブ」を歌っている人。てなところだろう。
しかしそれらは表向きの姿であり(本人は便宜上否定するであろうが・・)山下が本当にやりたい音楽は1940 年代のアメリカのJAZZ や黒人

ドウーワップ、それらが結びついた後のアメリカのロックンロール(オールディーズ)なのである。正直1985 年に入るともう興味なさそうなと
ころが自分とすごく共通している。ロバートジョンソンに始まりビル・ヘイリーやエルビス。バンドといえばベンチャーズ、ギタリストはチャ
ックベリー、ロイ・オービソン、ファルセットボイスならジェームス・ブラウンといったところにどハマりなところがジャストで精通している。
山下達郎と違う点、唯一どはまりでなかったのが、西海岸のホットロッドミュージックである。ブライアンウイルソン率いるビーチボーイズや
ジャンアンドディーンなどは、僕はレコードをとりあえず持っている程度であった。
しかし日本発の一人アカペラ多重コーラスを行なったきっかけは山下がこのア・カペラ(ストリートシンフォニー)や、ビーチボーイズを
若くしてコピーし、耳で聞き取り譜面に起こす作業があったからこそなのである。
「クリスマスイブ」の日本史上に残る美しいパッヘルベルを思わせる、クリスマスコーラスを作り上げた原点はここにある。

山下達郎と言えば、映画の主題歌やらジャニーズに曲を書くことで有名だが、彼の本編はアカペラや何と言ってもライブにある。
山下達郎のライブはノンストップで3 時間半近くあることで有名だ。しかもとても難しいギターコードを押さえながらの弾き語り
(カッティングという奏法)を行いながら、あれだけ高いキーの歌唱力と声量を兼ね備えている。
手前味噌であるが、私も最近2 時間半ノンストップの講演会をやったことがあるが、座って喋るだけでもぐったり疲れたし、喉がカラカラになる。
しかし山下はヒット曲もやるが、本命はそれ以外に作ったオールディーズを踏襲させた楽曲達にあると僕は思っている。
1978 年にライドオンタイムというカセットテープのCM ソングでビッグヒットを飛ばすまでの山下達郎のアルバムは本当にいい。
昭和歌謡全盛の時期に単身アメリカに渡ってレコーディングしたファーストアルバムや、ヒット客のないセカンドアルバムにはコアな
インディーズ洋楽ファンの名曲がずらりと揃っている。

88 年にクリスマスイブが歴史的ヒットをする前、スパークルやラブランドアイランドなど、夏を強くイメージさせる曲が連発した。
それらは今聴いても全く古さを感じさせない。邦楽では無いような印象である。
山下達郎のライブチケットはなかなか取れない。チケットが取りにくいアーティストは沢山いるが、彼らはアリーナやドームで何万人を一度に
相手する。しかも演奏などカラオケなのか生なのかわからない、いわばLED とダンスのパーティーみたいなもんである。まあそれはそれで大掛
かりなパフォーマンスなのであろうが、少なくとも演奏力や歌唱力で聴覚に訴えてくるライブではない。
山下は2000 人程度のホールか数百人のライブハウスしか演らない。彼の信念は「2 階席の一番後ろのお客さんにまで生の声を届けることにある」
と30 年くらい前のライブで公言していたのを記憶している。実際64 歳になった今でもそれを貫いている。誰よりも音に敏感で、良い音を会場
の隅々にまで届けることに特化していて、そのこだわりも凄い。「音が死なずに、声援とともに降ってくる会場」そんな地方のホールを探してツ
アーをしている山下達郎は、当然のごとく最高のプレイヤーをバックに付けている。全国津々浦々を何十年かけて選び抜いた9 人の演奏者は個々
の実力も半端ではない。彼らについてまで書くとあまりに長くなるので、そこは割愛するが、とにかく凄いプレイヤーである。すなわち日本で一
番最高の技術を持つ演奏者をバックに付けて、最高の音響を出すホールで、視覚的にも近い距離で、最高で完全な演奏と歌を3 時間以上聴かせて
くれる。そんなミュージシャンは他にはいない。他にも色々なミュージシャンのライブに行ってみたが、皆、多少演奏や歌詞を間違えたりするの
は当たり前のことだ。客も多少のことは気にしない。しかし山下達郎は23 〜28 曲を3 時間を超える舞台をノンストップで演奏し歌う中、1 度も失
敗しない。万が一歌詞や演奏を間違えた場合は、始めからやり直すという徹底ぶり。そして最後はステージ後方に作られたセットのお立ち台から
マイク無しのナマ声で2 階後方のお客に聞こえるように歌いかける。これで一万円しないチケットなのだから安すぎる。というかもう値段など気
にする客はいない。抽選倍率も百倍以上となっても仕方ない。ファンクラブはもう10 年くらい前から入会停止になっている。ファンクラブ会員
を優先させるとそもそも観客動員数が少ない山下のライブには一般の人間がチケットを取れなくなるからである。
もう一つの特徴は、40 年前のファンが離れないで付いて来ていること。またはどこかで達郎のライブに1 度でも来た人はほぼ次回も来ようとする
ため、全国、地方を周るツアーでも地元民は数少ない。都市部や遠隔地から遠征して観に来るファンが半分以上を占めるからだ。50 ~60 代のおじ
さん、おばさんがロックのライブに来るなんてそうあることでは無い。
皆、1 度味わった感動を何度でも追いかけて来る年配者とその子供達。
私も、娘とともにそんな徹底した山下達郎のライブステージを追いかける2人である。

そしてもう一つ、大抵のミュージシャンは、あれだけ高音域の楽曲は年齢と共にキーを落として歌うことが多い。というかそれが当たり前である。
しかし山下は還暦を超えても20 代前半に作った曲をキーも落とさず、さらにパワフルに歌うのである。もちろんプロンプターと呼ばれる機械
(カラオケ屋みたいに歌詞が画面に出る)も使わず、24 曲あまりの楽曲をギター演奏しながらこなすのである。
また山下の楽曲はギタコードが難しく、素人ギタリストの私には歌わなくとも無理である。
これだけ述べておわかりのように彼は正に「完璧」な音楽家なのである。
山下が2014年に、に気まぐれで行ったギグ(シークレットライブのようなライブハウスでやるイベント)で自身の曲で一番高い原曲のキー(G ♯)が出
なくなったら引退すると言っていた。

加えて山下達郎はルックスが良くないため、若い頃から1 度としてテレビに出ない。というと本人に悪いのだが、そのギグでは「この歳になっても
顔のことで色々言われるなんて、逆にそれのおかげで今があるから良かったよ」と笑っていた。

そしてこうも言った
「テレビに出てるあの人達(ミュージシャン)は皆、音楽は顔でやるもんだと思ってるんだ」

2019/6/10

H課長

僕が長野県にIターンする前、今から15年以上前の話。

当時まだ東京の大手製造メーカーの社員でして、開発部門のデザイナーとして在籍させてもらっていました。

当時係長が退社、独立してしまったので直属の上司はHさんという課長でした。
ここは大きな会社だったので、当然皆スーツにネクタイです。

しかし何故かデザイナー連中だけは私服が黙認されていました。
しかしこのH課長はもともとデザイナーという立場でありながらスーツにネクタイでした。
役職がついたからなのか入社当時からなのか?少なくとも私服はださかった・・。
デザインの長でありながら一番地味で、しかし会社には忠実、従順で、真面目を絵に描いたような、
そしてスーツはデザイナーモノとはほど遠く、紳士服の青山の店頭のマネキンのような
可も不可もないものばかり。

デザイナー同士はやはり個性が強いファッションが多く、派手でもないが、
とにかくその人の個性がはっきりとした人が多かったので、H課長の地味さは逆に妙な違和感がありました。
皆、H課長は若手の時は本当にデザインをしていたのか?とよく話していました。

しかも完全に会社側で、僕を含めはみ出しモノの集まりのようなデザイナー連中に厳しく
守ってもらうどころか、学校で言うと生活指導の先生のような存在でした。

従って、決して我々の尊敬や憧れの対象でもなく、はっきり言ってしまえば非常につまらない、
当然憧れや尊敬といったモノも抱くこともなく・・

このH課長、先に述べたように社則にはとても厳格で、上司の命令には絶対服従。
我々平社員のデザイナーが何を言っても見方にはなってくれません。
完全に会社側であったために、直属の上司でありながら、そう言った意味では
何も共有できない反対側の人間として受け止めていました。

ただH課長、課長という肩書き以外の場所。例えば会社を出た時。

通勤時、あるいはデザインだけの飲み会。

ほとんどなかったけど、休日のイベントみたいなもの。

そこでは本当に気配りの出来る人で、何と言ってもすごく優しい人でした。

日頃の青山のスーツで険しいな眼差しでデスクに座ってパソコンに向かう彼とは違う、
穏やかで優しい目で、きっとご家族にも真面目で真摯な姿勢であるに違いない。
そんなイメージを抱かせるのです。

奇妙と言うか、それは不思議な感じでした。

そんな当たり前でつまらない(失礼な言い方ですが)H課長とミーティング中に、とある個人の話になりました。

誰のことだったか全く覚えてはいないんだけれど、多分ある人の失敗によって生じた問題について
僕がその人をやや非難するようなニュアンスの発言をしたのだと思います。

そういうとき、大抵の人は、迷惑をこうむられたその人の非難に多少なりとも同調します。

「あんなコトされちゃたまらんよな」とか、「だからあいつは困るんだ」とか。
ひどいと、もっと尾ひれが付いて悪口が一人歩きします。

でも、H課長は少しでも誰かが非難を受けるような話になると、決まって、

「まあでも、人やからなあ・・」

そう、H課長と話をしていると、その場にいない誰かを非難するような方向に話題が移行しそうになると、

決まってその言葉がでます。

「んまあ、人やからなあ・・」

で、その話はそれで終わりとなるわけです。

記憶の中から薄れゆく沢山の人達の中、その1人になりそうでならない人・・H課長

人間的にすごく好きな人物です。

座右の銘って訳じゃないけど、まさに心に残る言葉なんです。


2015.11.15


書かなくなったコラムー後編ー

このアトリエは今年2015年で15周年を迎えます。
はい、おかげさまで15年つぶれずにやらせていただけています。

雑誌広告なんかでも15周年をうたっておりますが、
これはたまたま表紙に載る際、なんか話題は無いかな?と考えたときに
ああ、そういえば15年くらいになるんじゃないかな・・という感じです。

15周年Tシャツやパーカーも作りましたが、これも後付けですね。
そろそろ第4段デザインを作ろうかなと思っていたので・・

それでもって何を言いたいかというと、今回から、コラムというか
ちょっと過去を振り返りがてら、過去と現在の変化など
普段の自分らしくない視点から文章を書いてみようかなと思います。

ただ、まとまりが無くなるので毎回1つの題材にしてみましょう。

ということは、これはシリーズで何回か続くことになります。

すなわち15周年ついでにコラムが頻繁に(自分的尺度で)更新されます。

しかも毎回のタイトルがもう決まっています。

これは、「今からタイトルを開示してしまえば書かざるおえない」
といういわば自己啓発による事前申告で、締め切りを作って無理矢理書かせようと・・

かといってコラムを嫌々書くのではありません。

毎回、題材は沢山浮かぶのですが、構成を迷っているうちにやっぱやめようとか、
いつかまたにしようとかで書く機会を失っているのです。

このシリーズはそのように毎回題材が浮かんでいながら過去に
書くのをためらったものがメインになります。

ではまたコラムを再開しましょう。


書かなくなったコラムー前編ー


更新しなくなった一番の理由は、多分ブログとかツイッターとか、
そういっただれかれ構わず、いつでもどこでも意味難解なネット用語で
どうでもいい文面が社会的に横行し始めた。ということかなと。

「ブログ拝読しました」とか「ブログ更新してください」とか
たまに言われると、「これブログじゃねえし・・コラムだし」
なんて生意気なこと思ったりして。

てか、ブログとコラムの違いって?そもそも・・?

てな感じで軽く読み飛ばされるくらいならじっくり考えて
書いてもな・・なんてネガティブになったり・・

でもちょっと考えれば、ツイッターや芸能人のブログみたいに忙しい中、
思いついたことや見聞きしたこと、瞬時に書きつづるものとは
基本的に違うことに気づきます。

僕は現代小説だと片岡義男のようなストレートな描写や
ボブ・グリーン(アメリカのコラムニスト)のような等身大の言葉や
谷川俊太郎のような歯に衣着せぬ遠慮のない詩が好きで、

要は選ばれた言葉や表現を使った、心に残る文章を書きたいのです。

要するに読み飛ばされるかどうかは、書き手にかかっているのだと。
それがわかれば遠慮なく執筆して良いよな。
となったのです。

ただ、このコラムは依頼されるものでなく、
しかも誰が読んでいるのか、いつ読まれるのか、

要するに書いたにもかかわらず、反響もない。

いわばひたすら自己満足な点では、ブログと同じで、

そして何と言っても題材を振られるわけではないので

あくまで私的なメッセージの連続となる。

これが結構ためらいの原因でもあるかなと・・。

「自分の押しつけ」

今更何言ってんでしょうね。

ドッグカフェ経営当時のお店のHPのコラムは、ほぼ月1位の頻度で
すごく私的で、かつ過激な内容をとつとつと書いていました。

あまりにも過激な内容にお客さんから注意を受けたこともあります。

それに比べたらこの教室のHPのコラムは、かなりマイルドで、
老若男女向けに設定されているのがわかります。

自分も歳をとって、角が取れてきたんだと実感します。

とにかく、これが最近コラムを書かない言い訳であります。

何でも許されるなら、言いたいこといっぱいあるので
ガンガン書けるのですが、2児の父でもあるし、
内容や言葉・表現を選ばざるおえません。

が、

一部の人には結構受けることも知っています・・。


2015.8.15


ソーシャルネットワークサービス

僕はツイッターも、FACE BOOKもアカウントを持っている。

若い生徒達を相手に仕事をしているためか、
時代のはやりに流されるまま彼ら同様に自分のページを作った。

ところが、それらを全くといって利用していない。
それどころか使い方が全くわからない。

要するになくても良いのである。

考えてみればネット上で誰と友達になってゆけばいいのか?
そもそもネット上で誰かとつぶやくなど、仲良くても良くなくても、
その人が今どこにいて何をしているとか特に知りたくないし、
今僕がどこで誰と何をしているかなんて知ってもらいたくない。

知っている者同士でもそう考えているのだから、
知らない人なんかに知ってもらいたくないのは当然。

でも、翌日や数日後、その人とどこかで会うことになり、
いつどこへ行ってたとか、話してもらったり
僕も同じように何らかの体験談を聞いてもらったりするのは普通に楽しい。
いわゆる世間話ということ。

ネットオークションは10年以上前から数百件利用しているが、
顔の見えない人と金銭の取引をしていることにはいつも多少の緊張を持っている。
大事にはなったことがないが、多少のトラブルも何度かあった。

それらをふまえると、無差別、無限に仮想の友人と呼ばれる人とプライベートで繋がる
SNSは最初からちょっと恐いなと思っていた。

ここ1〜2年でやはり犯罪に利用され始めたり、
SNSが発端となった事件が発生し続けてきた。

やはりそうなったか。
というかそりゃそうだな、と思う。

でも、社会的経験値のない若者にはたまらないシステムなのだろうなとも思う。
始めたらやめられない。
今更自分だけやめられない。
危険と新たな刺激に満ちたネットサービス。
今後もっと増えるに違いない。

ところで、こんな事を書いている自分は、別にSNSに否を打とうとか、
どこかのネット評論家みたいな事を言いたいのではない。

きわめて個人的な事に気づいただけである。

僕は基本的に人付き合いがうまくない。
出先でも、人が沢山いるところで知り合いに会いそうなところでは
下を向いて歩いてしまう。

地区の寄り合いも、会社人時代の飲み会も大の苦手だった。

要するに友達が少なく、1人でいるのが好きだ。
でも多少の友人はいて、大切にしている。

てな感じなので、よくよく考えてみれば
SNSなんて全く僕に必要ないのである。

ネットを通じて、
会ったこともない人が、好意的に知り合いたいとか言われても、
正直困る。信用する理由がない。

現実の出会いなら、信用しても良い。
あるいはそれこそが大切な「縁」なのだと思う。
神様がもたらした偶然の、あるいは天が決めた巡り合わせかも。

わかりやすく言うと今この瞬間に出会っている生身の人、
今偶然に出会った人。知り合った人こそ
信頼の構築を与えられた大切な人物ではないかと。

だからSNSは全て退会しようと思う。

誤解の無いようあらためて述べておきます。

僕はどちらかというとデジタルな人間です。

別におじさんだからじゃありません。

                     2013.11.2


「YES」という名のアート

ふり返れば、コラムも1年に1度か2度しか書かなくなってしまった。
語りたいことは沢山ある自分なのに、
なぜかここ2年ほど自分をコラムに向かわせないのである。

理由はいくつかあって、しかしそれを述べる事も全く気が向かず、
というかそれらは他人には価値がない。

ここ近年、身近な人の身に起こる不幸や、震災のことや、
自分の心身の加齢にも影響されるのだと思うが、
色々と深く考える。

きっと様々なことを考えすぎ、きっとそこで行き着いたこと、
あるいは思考が止まってしまっていること。

それらが文を書かせない理由のような気もする。

僕は立場上なのか性格上なのか、人に相談されたり頼られたりすることが多い。

そのたびに、自分なりによく考え、あるいは一緒になって悩み、
結局は「勇気と希望」という結論に向かわせる言葉をかける。

そしてその後、必ず自分を振り返り、
人のこと世話焼いている身分でも、立場でもないのに・・と思う。

でも最近あることに気がついた。

今は皆が辛い時期だ。
時勢がそうなのだから、他人も、友達も、世の中の人も、きついのだ。
だからぼくも辛いことが多いのだと。

彼らが僕を頼るように、僕も彼らを頼りたい。

彼らにかけた言葉は、僕にかけた言葉そのものだとしか思えない。

鏡に映った自分にかけたい言葉そのものだろうと。

東日本大震災では2万人弱の方達が死傷した。
福島原発の継続して被災されている方もまだまだ困難は続く。

日本は先進国だから世界でも注目されている。
しかし数年前のタヒチの地震では死者が31万6千人と、日本とは比較にならない数字なのに
記憶からは薄れ始めている。
命の重さは同じはずなのに。

リーマンショック依頼世界はほとんどが下向きの経済である。

ホンキースもあれから以降生徒は少しづつ減りつつある。

東日本大震災では2万人の死者。

でも日本の年間の自殺者は3万人を超える。
交通事故の死者は5千人といわれている。

しかしそれらは災害のように一時的に起こる物ではなく、時系列的には緩慢に発生し続けているため、
一般の我々にとっては切実な問題としては受け止められない。

失業率は依然高く、就職難はいっこうに回復しない。

「頑張ろう日本」は東日本だけではない。

日本人1人1人、いや困難な状況に置かれる世界中の人や
自分も含め全ての人にかけたい言葉である気がする。

支えてあげる代わりに誰かに支えてもらいたい。

大人でも、子供でも、動物ですら、

互いに出来るだけ優しくありたい。

そして優しくしてもらいたい。

その結果、笑顔が生まれ、勇気と、希望へと

ゆっくりとつながってゆく。

こんな簡単なことが出来ずにさまよい歩いている世間。

そして自分。

些細な優しさと、笑顔を少しづつ繰り返しながら。
子供達に絵を教えながら、大好きな音楽を聴いたり演奏したりしながら。

しょせん芸の道を歩んできたし、この先もそうなのだと思うから、

ヴィクトール・フランクルじゃないけど、

「それでも人生にYESという」

                                  2012.3.29





東日本大震災

今は2011年3月16日。5日経った。

2011年3月11日、東日本大震災が発生した。

僕は仙台生まれで、津波が来た2キロほどのところにいた。

今も仙台と盛岡にはいくつかの従兄弟がいる。

2日以上経って、やっと一件と連絡がとれた。

皆無事であるとのこと。

今はその一言だけで十分である。

あとは、おそらく戦後最大のこの災害による被災者が、

一人でも多く助けられること。

苦しみから少しでも早く救われること。

思うことはそれだけしかない。

この長野県は被災地に比べ物にならない、安定した状況である。

400キロしか離れていない場所で起こっている日本人の不幸に、成すすべがない。

今できることは、とにかく寄付しかない。

ひょっとしたら自分だったかもしれないこの惨事による犠牲者が、

これ以上増えていかないことを。

何万人もの被災者が、

一刻も早く復帰することを

心から願います

自分に出来ることは

何でもしようと思う。



ジョンレノン30回忌

今日2010年12月8日、

ジョン・レノンがニューヨークのダコタハウス前で射殺されて30年を迎える。

30年。僕には彼の命日からの時間が、なにかひとつの指標になっている。
だからあまりにも早いこの30年は、易々とは受け入れがたく、それでいて何故か重いのである。

高校1年生の夏、初めて恋をして、秋には失恋し、味わった事の無い悲しみを体験した。
その直後、自分が起こしたくだらない理由で学校の友達と激しい喧嘩をし、流血で帰宅した。

あまりにも辛い秋だった。思春期まっただ中の自分は親とも決裂状態であったし、
だから必然的に信じるものは音楽だけになっていた。

思えば中学3年から高校2年くらいまでが、人生で最も音楽に
よって自己変革を起こし始めていた時期だった。

何かを諦めたように、淡々と嫌いな高校に通う毎日を繰り返す。

12月8日、学校から帰ってテレビを付けた。忘れもしない夕方5時30分。「夕焼けにゃんにゃん」という当
時の少年達には、何もためにならない高視聴率番組が流れていた中、画面にニュース速報が表示された。

日本時間9日の午後1時過ぎ
「ジョンレノンがニューヨーク自宅前で射殺された模様」

両親が共稼なため、夜まで一人きりの東京のマンションのリビングで、僕は立ちつくした。
速報が画面から消えた後もしばらく画面を見ていた。
もう「夕焼けにゃんにゃん」にでてくるアイドルの娘たちは目に入らない。

多分15歳の僕がその時直感的に思ったのは、
これから自分の中で成長してゆく大切な骨が、ひとつ死んでしまった。
それは今しがた無くなったのだ。
この痛みとリスクは僕だけでなく、たぶん世界中の人も同じ目にあうのだ・・と。

ぼくは慌てた。しかし今のように携帯もメールも無かったので、誰にも事態を共有してもらえない。
ただでさえ友達が少ないのに、こういった価値観を共有できる友達などいなかった。

母が仕事から帰ってきて、早速この事を告げると、
案の定最初だけ驚いたが、すぐに夕食の支度に入ってしまった。

意外にも、その日7時のニュースでも、夜半のニュースでも、
ジョン・レノンの死亡はそれほど大きく取り上げられなかった。
1週間経っても、そんな感じで、「結局日本ではこんなものなのか?」とすごく感じた記憶がある。

ただ、のちに日本社会もこの損失の重大性を感じてゆくのだが・・

僕の音楽性は、多分両親が洋楽をよく聴いていたというのもあると思う。
当然演歌など我が家ではかかったことなどなかった。
しかし、それにしても小学校2年くらいから、いつでもラジカセを離さず、数少ない洋楽番組に聞き入っていたいた僕は
尋常ではなかった。学校でも有名な洋楽マニアだった。
4年生のときには5〜6年生の放送部員たちが昼の放送に何がいいのか、教室に僕を訪ねてきたほどの変わり者だった。
外国から大物バンドが公演に来た時など、1人自転車で会場まで行って、当然チケットは買えないから
会場の外で漏れてくる音を聴いていたりした。

ジョンが亡くなって数年のちに、僕は黒人R&Bやブルースに狂い、アメリカ南部のJAZZやそれらを起源とするロックンロール
に魅了されて、それは30年たった今も探求し続けている。

ビートルズ全盛期、ライバル的存在のローリングストーンズはビートルズファンの敵だった。
欧米のメディアは双方の対極的な価値観を増長させるように、かき立てた。
良い子のビートルズと不良のストーンズ・・今となっては可愛い話だ。
両方とも今の音楽の源となる、いわば殿堂の調べだった。

いずれにしても日本では関係ない話だったと思う。

のちに僕はストーンズフリークになったが、年齢的にアンチビートルズの世代は過ぎていたので、両方隔たり無く聴いていた。
だから「サージェントペパー・ロンリーハート・クラブバンド」や「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」の映像に
ローリングストーンズのミック・ジャガーやキース・リチャーズが同席していたのは本当に嬉しかった。
ビートルズとストーンズが合奏している!それに彼らは互いの曲もカバーし合っていたりした。

ちなみに僕は自分の美術教室名を『KEITH』としてしまうほど、ストーンズのキースリチャーズを神と崇めている。
この世で最も影響を受けている人生の師匠であり、目標である。

死後もなお、反戦そして平和と愛を訴え続けるジョンレノンとオノヨーコ。
社会に反発し続け、好戦的なキャラクターを演じながらブルースロックを歌い続けた忌野清志郎も
いつしかジョンレノンのやり方にたどり着き、しかし志半ばで他界してしまった。

文明豊かな今の世界。しかし中東情勢や、朝鮮半島情勢を見ていても、いつまた戦争になってもおかしくない。

30年たった今日、きっとジョンは言っている。

「人間は繰り返す動物だから、もっともっと肝に命じなきゃ」

 

そしてジョンレノンから教わったことはひとつではないが、
以下の事は特に普遍的な事実だと思う。

「少なくとも音楽には、言語のハンデや、宗教や
それだけでなく、貧富の違い、年齢や性別の差までも超えてしまう力がある」

以上が30周忌をむかえるジョン・レノンへの、僕からのオマージュである。

ああ、それから当時印象深かったコメントがある。

ジョンが殺されたあの時、僕の尊敬する海賊キース・リチャーズが言った言葉。

「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」、
「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」

                     2010.12.7 



第20話

塀の中のデザイン

昨年からある仕事を依頼されて、ようやく形になってきた。

そこで最近そのプロジェクトが公式に世間に発表されることになり、
先日記者会見およびプレリリースとなった。

内容は松本少年刑務所内。

受刑者達の刑務作業の一貫として、
彼らと共にデザインおよび商品開発をしてゆくといったもの。
200人近い所内でのデザインコンペを勝ち抜いた約8名の受刑者と、
数回に渡り打ち合わせを重ね、最終的に世間に向け販売となった。

1回めのリリースは、受刑者達による刑務所ロゴマークとTシャツ2種
で、今年も引き続き第2段の計画へと進行中ということになる。

仕事の内容が内容だったので、公式発表までHPにも書かなかった。

約400人の受刑者の中から、200人近いアイデアの応募があったのには
かなり意外だった。
中には投げ槍な提案もあったが、最終的に絞った10案は本当に優秀だった。

そして選考に残った8名の受刑者達と始めてのミーティングをした時のこと。

刑務所の玄関から、いくつもの厳重な扉を通過し、やっとたどり着いた教室。
そこには沢山の刑務官と所員たちに囲まれながら受刑者達が待っていた。
今までの僕の仕事のミーティングと言えば、本当に気軽でいいかげんな
ムードの中でばかりだったが、こんな厳重な警備に囲まれてデザインの仕事を
する日が来るとは夢にも思ってはいなかった。
というか、法務省からの仕事をするわけがなかったのだ。

双方自己紹介なしの会議が開始。
受刑者達にアイデアのプレゼンテーションをしてもらったのだが、
その内容の濃さには本当に驚いた。
みな真剣なのだ。

アイデアのスケッチのみならず、本当にプレゼンテーションがうまいのである。
一見、囚人服と丸刈りの頭でむっつりと黙っていた一般的な受刑者のイメージ
を大きくくつがえす見事で、インテリジェント(知的)な発表だった。

はじめは緊張でガチガチだった彼ら(僕も)と次第に砕けた会話が出来るように
なってきた時は、ここが刑務所の中で、彼らが服役中である事を忘れそうになる。
2度目以降のミーティングでは、会話の中で普通に冗談や笑いもでて、
互いにリラックスした仕事場となっていた。

僕には想像もつかない長い期間ここで過ごす彼らは、
やりがいに飢えている。
自らの能力を証明する場所を本気で求めている。
強くそう感じた。

1回目のプロジェクトが終わって彼らと別れる時、
僕の気のせいかもしれないけど、
やりがいのある仕事が終わってしまい、
以前と変わらない毎日に戻る、彼らのなごり惜しいまなざしが印象的だった。

次の開発プロジェクトで、このメンバーがまた残るとは限らない。
なので互いに名前も知らず、二度と会わないかもしれない。

刑務官の話によると、出所した受刑者とシャバ(社会)で再会するのは
あまり良いことではない。と言っていた。

でも将来本当の仕事相手として、彼らの誰かと再会したとしたら
ある意味気まずいのかもしれないけど、
「それはそれですごく嬉しいな」と思う。

だってあれだけの能力がありながら、こんなところにいるのはもったいない。

受刑者自ら言っていたのだが、
「僕らの多くが何度もここに戻ってきてしまう」

社会には、そんなにここに戻してしまう誘惑があるのだろうか。

刑務所から帰る高速の車内でいつも思ったのは、

「いったいあの優秀な青年達は、なぜあそこにいるのだろう?」

だが、それは考えても意味のない事だといつも思った



                      2010.5.22





第19話

忌野清志郎に捧ぐ

追悼コラム

忌野清志郎が死んで、早3ヶ月経つ。

その間、何度もこのコラムをきちんと書くことを試たけど、結果的には無理だった。

あまりに想いが強すぎることにより、記述内容に焦点が絞れず、収拾がつかなかった。

確かに清志郎を語り出せば、一晩あっても足りないはず。

矛盾で凝り固まった日本社会で青春を送らねばならなかった、当時のロック少年少女(私達)は皆そう。

そこで、このコラムを以下の短いコメントに納めることにした。

今年のゴールデンウイークのある夕方、彼の訃報をテレビの速報で知ったその時、

僕は、瞬間こうつぶやいた。

「うそだ・・俺、まだなにも恩返ししてない・・」

それはまさに本心。

その後、テレビやネット上などで、多くの一般のファンのメッセージを見聞きした。

その中で、最も多かった言葉が印象的で、

かつ、皆同じなんだと思った。

「清志郎に救われたのに、なにも恩返ししないまま逝ってしまった・・」

多分、みんな最近のj-popなどには、耳をかさない本物のロックファンであり、

僕と同じように多くの古いの海外のR&BやBLUESに影響を受けてきた人たちであろう。

みなさん尊敬するアーティストは、他にも沢山いるはず。

でも、今も僕らが恩返しをしなければいけないと、

本気で感じるミュージシャンは、

多分、忌野清志郎だけだと思う。

その理由がなぜなのかは、今ここに書く気がしない。

説明してもあまり意味がない。

キング・オブ・ロックの子供達である

僕たちだけがわかっていればいいことだと。

以上で清志郎に対する僕の追悼文は終了します。


先日、仕事場で、清志郎の歌が流れていた。

たまたまその歌声を聴いていた、ある普通の女性が言った一言に、

僕は限りなく救われることになった。

「この人、死んだけど・・・ちゃんとここにいるじゃん」

                             2009.8.19


第18話

忌野清志郎の告別式


(弔問者に配られた写真です)

僕の日本で最も信頼する音楽家の1人、忌野清志郎が、癌性リンパ管症のため

2009年5月2日 午前0時51分享年58歳にて逝去してしまいました。

昨日5月9日、東京の青山葬儀場の告別式に参列してきました。

仕事に追われる中、無理を承知で上京し、参列したのですが、

当日現場ではなんと夜まで6時間ほど並ばなくてはいけない状況でした。

乃木坂を中心に青山墓地周辺は全国から来た数万人のロックファンに包まれました。

たくさんの報道陣や上空を飛び交うヘリ。

それは当日来たすべての参列者が互いに驚いた結果となりました。

突然の清志郎の死に、個々の予定をなげうって全国から集まる信者はこんなにいるんだ。と

若者はほとんどいないロックの集まり・・

僕だけではなかった。

日本史上初の無宗教のロック葬は
当初予定では夕方6時までだったが、結果深夜まで延長された。

RCサクセション、忌野清志郎は、意外にも

ものすごい数の人の人生に影響を与えていたことがわかった。

すなわち僕だけではなかった。

今はショックと悲しみでうまくコラムを書けないので、気持ちが落ち着いたら

いずれあらためて彼へ追悼の文章を書きたいと思います。

とにかく彼は僕の不安定で暗かった思春期を常に支えてくれた方です。

音楽や美術をボーダレスに結びつけてくれた先生です。

僕の中でホンキースの源となった人であると思います。


音楽と絵と子供や地球の自然を愛し、 不器用ながらに自分の仕事で

それらを社会に強く主張し続けた、信念と反骨の人物でした。

彼は本物でした。

心よりご冥福をお祈りいたします。

2009.5.10



第17話

長野県の自然について

数年前の夏のこと。
東京から遊びに来た小学生達と犬たちと、いつものように川に泳ぎに行った。
せっかく車で連れて行くので、なるべくロケーションの良い、景観の美しい場所を選んで行くのである。

選んだのは僕のお気に入りの川辺である。
山道の舗装道路が終わり、軽自動車のやっと通れる林道をガタガタ10分程上ってゆくと
そこにはまるで映画の「リバーランズスルーイット」にでてくるような広く美しい川べりが私達を待っているはずである。

日本の渓流は世界の中でも本当に美しい。
まさにそれを象徴するようなその川辺が、なんとその時は無かったのである。

猿や鹿しか住まないその楽園は真っ平らに整地され、いつものアルプスの雪解けの水流はどこにも見あたらない。

広大な駐車場のように平らに踏み固められた土地の真ん中に、
どっしりとパワーシャベルが居座って、エンジンをかけてこちらをを睨みつけている。
こんな山奥にあんなでかい重機がどうやって入ってきたのか?

僕はショックでふるえる足で車から降り、消えてしまった「リバーランズスルーイット」を探した。
川は私の足の下に埋められたトンネルを流れているようだった。
いったい魚達はどこへ?

脱ダム宣言を押し進め県民に追い出された田中知事がいなくなり、
いつしか旧体制に戻った長野県は、夢のような美しい流れをまた砂防ダムにしたのだ。

高度成長期に壊し続けた、自らの美しい財産の数少ない残りを・・ 

「これで僕が信州に移り住んだ理由が、また一つ消えてしまった」
と思った。

数年前ある雑誌の取材で、その川辺で自分がフライフィッシングをしているシーンを使ってもらった。
その写真が、その美しい川辺が確かにそこにあった最後の証になってしまった。
 
 
話は変わって、地区の自治会の会合に出たときの事。
その時の議題は「近所にプラスチック容器の一時保管場所ができることについて」の審議会だ。
その保管場所は資料を見るととても小さいガレージのようなもので、ゴミ問題にうるさい地区住民に十分配慮されたものに思えた。
しかし皆さん以外に執念深くその業者さんに食い下がる。
ゴミ業者さんは一時苦しい場面もあったが、今後監視を続けることで住民達は渋々納得したようだった。

私は、その小さなプラスチックの一時保管所に喧喧諤諤するこの町内の数キロ上流で、
あまりにも無惨で大規模な大自然に対する殺戮が行われていることが頭から離れなかった。

目の前の小さなゴミの保管場所の監視はあんなにムキになってするのに、
自分たちのふるさとの自然や動物が、まさに今、県や国に大量に破壊されていることに憤りはないのか!?
という疑問でいっぱいだった。

私の場合、長野の自然の中で暮らしていることが誇りである。
が、昨日の彼らの様子を見ていると、自分たちの住処は自分の家や町内だけであって、
自然豊かな信州の自然の中に住んでいるという意識が低いのでは。と感じてしまう・・

頼むから私が犬や子供達と遊べる場所をこれ以上コンクリートで覆わないで欲しい。

美しい自然の水の流れをコンクリートのダムや水路に変えないでください。長野県よ。

                           08/11/5  

                       


第16話

ギルバート・グレイプ

僕はすごく映画が好きなので、自分の中での名画について最近よく考える。

今まで生きてきた中で、本当の名画とはどれだったのかと。

若いときはホラーもよく見たが25歳以降興味がなくなった。
レンタル時代になってSFは今もよく観る。
しかし選り好みが激しくなって、なんとなく結果あまり観なくなった。

では最近なにをよく観ているかと自分で振り返ると・・
まあそれはいずれあらためて整理することにする。
だって結構統計が難しいから・・。

で最近、以前観た映画をあらためて借りてくることが多い。
歳のせいだろうか、なぜかふと観たくなる作品があるのだ。
希望通り10年20年越しに観た映画には、それなりの感想があるものだ。

僕はジョニーデップがずっと前から好きだ。

初めて観たのが『ギルバート・グレイプ』
(原題:What's Eating
Gilbert Grape)1993年のアメリカ映画。
ピーター・ヘッジスの同名小説の映画である。
共演はジュリエット・ルイスとレオナルド・ディカプリオとい
う今となってはすごいキャストだ。
現在はどちらも素晴らしい俳優になったと思う。

ただ個人的にはディカプリオはファンではない。
良い俳優だと思うが正直どうでもいい。

しかしこの作品だけは違う。
まだ少年で無名だったディカプリオは、この映画では
その後彼の出演した有名な作品をはるかに上回るのではないか
と思えるくらいの素晴らしい演技をしている。
と僕は思っている。

同じく駆け出しのジョニーデップ演じる兄と、重度の知的障害
を伴う自閉症のある弟を演じているディカプリオは本当に最高である。

アイオワのある田舎町の、ありふれた1家族。
とりたてて珍しくも何ともない庶民的なエピソードを、とても臨場感
深く演じる彼らのその説得力こそが我々1市民、あるいは1個
人のありふれた人生の偉大さをあらためて教えてくれるのだ。と思った。

この作品には、いつものすかしたジョニーデップはいない。
いかれたぎりぎり少女のジュリエット・ルイスもいない。
ましてや今や色男のディカプリオの面影もまったく無い。

しかし3人はあまりにも普通で、
しかしその後のどの作品よりも最高に我々に身近である。

普通であることの深さを演じきった秀作。

僕にとって、これこそ名画と思う作品の1つである。

                           08/5/15  

                       




第15話

ディズニーアニメから教えてもらったこと

今生きている世界を第一の現実だとすると、

蓄積されている情報がまだ少なかった子供の頃の自分には、

今ほど多くないテレビや映画や漫画などの世界は

非常にストレートな第2の現実世界だった。

今思い起こすと、結果的に最も強く影響を受けたのは

ディズニーアニメとチャップリンの映画だったと思う。

チャップリンは父がファンだったので連れて行かれるままだった。

ただ、ディズニーアニメはどのようにそれぞれを観たのか覚えていない。

しかしほとんど観た記憶がある。

はじめて劇場で観たのが1962年の「ジャングルブック」

次は1970年の「おしゃれキャット」

それ以降どれを観てもとても面白かった。

もちろん他の子と同じように日本の漫画やアニメも観ていた。

でも、作品の完成度というか奥の深さ、そして作品への心の引き込まれ方が

日本のアニメとは根本的に何かが違うなと感じていた。

当時は、ディズニーのあまりにも膨大な費用と制作日数などの事は知らなかったから、

ただただ、日本アニメとは相反する魅力の違いと大きさに魅了されていた。

今ではディズニー以外にもたくさんの欧米のアニメ作品を手軽に観ることができる。

同時に90年代以降日本のアニメ作品も世界へ影響を与えるものになった。

でもそれ自体は今の僕にはあまり興味が無い。


ウオルター・イライアス・ディズニーは1937年制作のはじめての長編大作「白雪姫」から

細部までの完璧なこだわりと、見事なまでの広がりと統一感のある世界を

今もずっと維持しながら作品を作り続けていると思う。


ディズニーアニメの一切手を抜かないがゆえに生まれる素晴らしい気品の世界は、

「それ以下のモノを厳しく見据える目」を僕に養わせてくれた。

だから今も自分の子供と共にディズニーアニメを観ている。

       

                          08/2/20  

                       



第14話

動物の話その2

--
猫から教わった--

19の時、東京の実家周辺ではたくさんの野良猫がいた。

いくつかのブロックに分かれボス猫も存在していた。

ボス猫はどれもでっかく、それなりの風格というかオーラがあった。

うちにも飼い猫がいたが、動物好きな家には野良猫も結構出入りするものである。

ボス猫はとにかく気性が荒かったりするので、家の飼い猫は皆怖がって当然で、

たまにケガさせられたりするから、飼い主のほとんどはボス猫に対して警戒している。

うちとて例外ではなく、たびたびボス猫に追われて逃げ帰ったり、傷ついたりする我が家の猫

を見て、危害を加えるボス猫を、荒くれ者の暴君のように見ていた。

その中で1匹のボスが、ある日うちの縁側にいた。

数年前から知っている猫だったが、うちの庭を通る程度のつきあいだ。

なぜうちの縁側に? よく見ると漫画のマイケルそっくりだ。それにでかい!

そのでかいオス猫をうちでは「デブ」と呼んでいた。

さらによく見るとずいぶん歳をとっているようでもあった。

その日から彼は比較的僕のうちにいるようになった。

数日外泊しては、1日くらいいて、また数日外泊に行く。

それが半年もすると滞在時間と外出時間が半々になった。

彼はいつも縁側にいた。決して家の中には入らない。ドアが開いていても入ってこない。

そのでかいボス猫は、しゃがれた大きな声でビャア〜と鳴く。

デブは時折咳き込んでいた。それも激しく、まるで老人のような声だった。

あまりひどくむせると心配になってサッシを開けて「大丈夫かデブ?」と声をかけた。

冬になり寒くなったので、縁側にデブの小屋を造って、毛布を入れた。

真冬になる頃には、デブの家にはマグネット式の扉がついて、出入りの時以外自動で閉まるようにした。

そうすると外からは小屋の中にデブがいるのかいないのかわからなかったので、窓をつけた。

デブが我が家に来てからは、他の野良猫は全く来なくなった。ボスの威厳ってやつである。

僕は家族に「やっぱデブはすげえんだ!きっと若いときはめちゃめちゃ強かったんだ!」と自慢した。

現に彼の顔や体には、無数の喧嘩による傷があった。

でもデブは歳のせいもあるけど、すごく穏やかで優しい感じがした。

会社から帰ると、いつも縁側の小屋をのぞき、デブがいると声をかけた。彼もビャア〜と鳴く。

1年後の夏には、いつしかデブの小屋は2階建ての屋上テラスつきになった。

しかし次の冬には体調が悪化して、外出も少なくなったため、デブの小屋の中にリモコン式の電気あんかも設置した。

相変わらず咳き込んでいて、時々少量の吐血をした。

心配して家の中に何度か招き入れたが、彼は断固として家には入らなかった。縁側の自分の家にいるのだ。

いつしか社会人になった僕は、いつしかデブを「かっこいい」と思うようになっていた。

猫に対してこんなこと思うのは変だとは思うが、彼は常にクールで、シンプルで、余裕があり、

そしてなぜが優しい感じがした。

彼がかもし出す雰囲気がとにかく好きだ。彼が縁側にいるだけでなんか安心した。

ただ、ボス猫デブも年齢には勝てなかった。どんどん体力が衰えてゆく。

でっかい体も触るとガリガリである。食ってもよくもどす。

ある日、ちっちゃな子猫がデブの小屋にいた。デブにくっついている。

子猫は出もしないおじいさんのおっぱいにすがりついている。

子猫の母はどこなのか?どこから来たのか?デブが連れてきたのか?未だに謎である。

とにかくその日から子猫はデブにくっついている。我が家も仕方なく子猫を飼うしかなくなったが、

デブと違って、その子猫は人間になつかないのである。人が近寄ると逃げていってししまう。

デブがたまに散歩に出ると、子猫も一緒にいなくなる。一緒について行くのかわからないが、

とにかくデブがいないときは子猫もいない。デブがいるときは子猫もいる。

ご老体のおじいさんにとっては、始終赤ん坊の遊び相手はつらすぎた。

子猫はいつでもデブにじゃれついていた。デブは明らかに困った顔をしてされるがままになっていた。

しかし絶対に子猫を叱ったり、邪険にしないのである。

あまりにしつこいときは僕のアメリカ製のジープの屋根まで逃げていく。

しかし子猫も体力がついてくると、ジープの屋根まで上れるようになってきた。

子猫にもみくちゃにされながら、それでもデブは文句言わずに生活していた。

          

ある日デブがひさびさ帰ってこなかった。元野良のボスである彼には広いテリトリーがあったはず。

流浪のアウトローであったはず。たくさんの彼女を泣かせ、たくさんの子孫がいるはず。

年老いても孤独を愛し、旅に出たいのである。でも1泊くらいで帰ってくるのだが・・

その時は帰ってこない。

5日くらい経って、うちの家族では「野良猫だから、きっとどこかに死にに行ったのだ」

という意見もあった。ぼくもなんとなくそんな気がした。

でもひょっこり帰ってきてほしい・・死ぬにしても孤独のまま死なないでほしい。

2年半もうちにいたんだからそりゃないだろ・・そう強く思っていた。

7日目の朝、僕は出勤時に、門を出る寸前になぜかふとジープの下をのぞき込んだ。

デブが倒れていた。

少し血を吐いていた。

見ると道路から点々と血痕があり、僕の車の下で絶命したと見てとれた。

デブはどこか野生の死期を感じ取り、

野良猫として、隠れた孤独な死を迎えるため身を隠していたに違いない。

しかし本当に最後を迎えるとき、

最後の力で、我が家に帰ってきたのである。

そして家の敷地に入った瞬間息をひきとった。

僕は瞬間的にそれら全てを悟って、しゃがみ込んだまま号泣した。

その日は午前半休をとって、デブを丁重に箱に入れ遺品と共に火葬した。

デブと一緒にいたあの子猫は二度と姿を現さなかった。

今思い出しても、デブのイメージは全てかっこいい。

どうしたらあんなかっこいい男になれるんだろう・・

本気でそう思ったものだ。

今、僕の中にはたくさんのHEROがいる。

俳優、作家、恩師、伝説的ミュージシャン、他

それらの者が現在の僕を形成している。

ある意味ホンキースの起源もそこからといえる。

デブもその1人。

唯一、僕の人生に大きな影響を与えた猫がいた。

                                    07年12月5日


第13話

動物の話その1

--冬と夏のきつねの話--

長野県に来て数年経ったある冬の夕方、6時くらいだったろうか

仕事で南に農道を走っていた時のこと。

真っ暗な進路の先の路上中央にキツネの死体が見えた。

60キロ以上の速度だったのでちょっとあわててハンドルをきった。

野生動物が跳ねられるのはこの田舎では珍しくない光景だ。

しかも犬猫や野生動物を轢いて、後処理をするドライバーはほとんどいない。

あまり言いたくないが、こんな時ぼくは時間に余裕がない場合と

死体が手をつけられないほどの損傷をうけている場合を除いては、車を降りて死体を処理することがある。

この夜僕はデザインの仕事の納品に向かっていたので急いでいた。

だから、そのキツネの死体を通りすがりに見て過ぎ去った。

後続車両にさらに轢かれないことを祈りながら・・

高森の仕事先での納品は15分足らずで終わった。

帰り道、キツネのことは忘れていたため、再びその現場に差しかかったときまたあわててハンドルを切った。

「そうか、たしかキツネが跳ねられていたっけ・・」と思いながら

降りて自分のジープの荷台を開けてなにかビニール袋でもないかと探した。

そして死体を見にゆく。やはりこの瞬間が一番勇気がいる。損傷が大きいとさすがに触るのがつらい・・

幸いきつねは口と排泄部からの出血程度であった。

ビニールで包むように死体を持ち上げた瞬間、

死体がマグロのようにもがいたのだ!血が飛び散りふりかかった。

ものすごく驚いてあわてて下におろした。

キツネは白目をむいて痙攣している。よく見ると後ろ足が反対に曲がっていた。

キツネ生きていて重傷を負い、氷点下の路上に放置されていたのだ。

生きていたことを知っていればはじめに通った時に何とかしたのに・・後悔の念がはしった。

キツネは爪で引っ掻かれると細菌感染しやすいので、革手袋で注意しながら毛布にくるんで荷台につんだ。

何軒かの動物病院を回り、宮田村の獣医さんに頼んで預けた。

重傷で痙攣するキツネを先生は、おおかたダメだろうと言った。僕の目にもそう見えた。

しかし、驚いたことにキツネは回復した。

7日くらいして何とか歩けるようになり、山へ帰してやった。

 

やがて季節は春になり、初夏の陽気になった。

僕はある日、庭で斧で薪割りをしていた。

快晴の真っ昼間である。

山側の草むらがガサガサとゆれた。

猫だろうと思って手を止めてみていると、草の中からキツネが顔を出した。

真っ昼間に住宅街の庭先にキツネ来たのにはさすがに僕も驚いた。

しかし驚くのはこの後である。

昼間に、斧をふりかざす人間に遭遇したキツネは、当然逃げ出すはずである。

しかし、そのキツネはゆっくりと僕を見ながらこちらに歩いてくる。

ここに僕がいることをはじめから知っていたかのように・・

キツネは何と僕の2メートルほど前まで来て腰を下ろした。

あまりにも突然のことに僕は身動きひとつ出来なかった。

住宅街の真昼の庭先で、斧を持った僕は、至近距離でキツネと見つめ合った。

数秒して、キツネはゆっくり腰を上げ、来た方向とは違う草むらへと歩き、姿を消した。

数日して、ある人にこのことを話すと、

それは冬に助けたキツネがお礼に来たのだと言われた。

そう言われるまで冬のキツネのことなど忘れていた。

僕は思わず「日本昔話みたいだ」と笑い飛ばした。

                                 07年12月5日



第12話

--ハロウィン--

僕は昭和40年代生まれで、高度成長期まっただ中に東京の杉並区で育った。

大都市で成長した割には、当時を思い起こすと西洋の行事といえばせいぜいクリスマス程度・・

それも昭和の日本のクリスマスであるから、子供なりに本場欧米と比較して

あまりにスケールが小さく、根本的に大きな差を感じていた。

それでも、幼少期から強く西洋の文化に興味・影響を受けていた自分には

幼稚園や習い事先で開かれる小さなクリスマス会は楽しみだった。

逆に日本古来の伝統行事は好きでなかった。

ハロウィンを知ったのは多分2年生の時くらいだったと思う。

ハロウィンはヨーロッパ由来のものだが、特にアメリカのハロウィンはハチャヤメチャでインパクトがあった。

Trick or Treat!
「お菓子をくれないと、あんたの家に卵やクリームを投げつけるぞ!」

このセリフは、このご時勢では立派な脅迫、いや恐喝である・・

お化けや動物に仮装して身元を隠し、この理不尽な脅迫行為を堂々と、しかも連続でやれるのだ

当時の悪ガキの僕には、あまりにも衝撃、かつ魅力的だった。

日本に生まれたことによって、この合法的な悪事に参加できない事を本気で悔やんだ。

ただ、こんなめちゃくちゃな国家行事は我が国では到底不可能だとも

子供ながらに感じていたので、当時は心の奥底にしまっておいた。

それに、友達に相談しようにも、大人も子供もハロウィンを知らなかったから、話しようもなかった。

--今回、2007年の10月31日、本物のハロウィンをやった。--

結論としてわかったことは、大人になった私には、
未だにこの夢の悪事に対しての憧れが消えていないのであった。

アトリエホンキースをはじめてから何度か、小さな仮装イベントをやったと思う。

でもその中途半端さに全く満足していなかった・・・。

何度かよその団体のハロウィンイベントも除いてみた。

しかしどれも納得できなかった・・・。

その理由は沢山ある。

でもここには書かないことにする。
それは、どのような形であってもハロウィンという欧米文化を日本でやっているという
大切な仲間であることに間違いないのだから、否を打つようなことはしたくないからである。

要するに、僕のやりたいのは

本物のハロウィン。欧米と同じシンプルな内容を徹底したいのである。

適当ではなく、ちゃんと仮装する。
パレードに同伴する大人もである。
しかも10月31日が平日であろうと関係ない。土日などに動かしたくない。
部活や他の習い事があっても、そちらを休んでもこのイベントに来たいと思う人に集まってほしい。

そして、日本の他のハロウィンイベントのほとんどで出来てない大切なこと!

本当に家や店を回って
Trick or Treat!と叫ぶ

そしてお菓子をもらうのである。

今回、パレードが終わってアトリエに戻り、
アトリエの床にみんなの袋の中身を出してみた。

見たことないくらいの山のようなお菓子。

子供の夢が現実のものになった瞬間であった。

でも、あれは子供達だけのお菓子ではなく、僕のお菓子でもあった。

このてのイベントでは、主催者や先生や保護者は、
楽しむ子供達を、腕を組んで大人同士笑いながらあたたかく見守っている。
写真でも撮りながら・・
他のハロウィンイベントも多くがそうであった。

でも今回私は、主催者で先生でもあったが、誰にも負けない仮装をした。
仮装をした子供達が一瞬ひいてしまうほどの力の入れようであった。
何日も徹夜で衣装をつくって、本番前に私の生徒の女子高生にがっちり化粧してもらった。

僕には私服で子供達を誘導しながら、腕組みして、写真を撮ったりなんかできるわけなかった。

だってこのハロウィンは、

30年以上もかなわなかった重大な夢のひとつ。

一生の中で、もう無理なんだと諦めてしまっていた悔しい事実。

でも30年経ってもあきらめなかったかいがあった。

あの晩は、私にとって全く仕事ではなかった。

楽しむ子供を通してハロウィンを楽しんだわけでもない。

10歳の自分がそこにいて、子供達と一緒に走り回っていた。

                                07/11/1






第11話

オーストラリアの農場で

25歳くらいの時、オーストラリアの農場で働いていた時のこと。

広大な農場は想像がつかないくらいの広さがあった。

時々、早めの夕食を終えると、寝袋と酒を持ってブッシュの中へひたすら歩いて行き

農場内にいくつもある小さな池の湖畔に座って星を眺め、寝る。

いわゆる「ブッシュキャンプ」である。そんなことをした。

ところでオーストラリアはどこの農場にも何匹かの犬がいて、当然牧羊犬がもいる。

そこの農場も2匹のボーダーコリーがいた。

彼らの仕事(羊追い)はショーを見ているかのごとく素晴らしかった。

でも彼ら2匹は他の犬達と違い、以外とクールで無愛想だった。

オーナーの言うことは海兵隊のようにビシッと聞くのに、僕が呼んでも来ないし、さわらせてもくれない。

スキンシップがないのだから、僕は彼らの仲間でもないように思われた。

最初のブッシュキャンプの時、暗闇をライトひとつで歩くのは怖かった。

羊は夜は寝ているが、ウサギやカンガルーの小さいやつがたくさんうろついているのである。

頭上のユーカリ林ではモモンガみたいなもんが飛んだり、跳ねたり。

熊とかの猛獣がいないのはよくわかっているが、でも怖かった。

びくびくしながら座って酒でも飲んでいると、周囲では常に動物の足音が・・

酔っぱらってくると少しは怖くなくなったし、時間と共に慣れてくる。

時々、音のする方へライトを照らすと、小動物が見えた。

寝際に、やや大きい足音を感じ照らすと、15メートルくらい離れてあのボーダーコリーの1匹がいた。

しかもこちらに興味なさそうに、あちらを向いている。

こいつなぜココに?さてはこの池はこいつの憩いの場所なのか?

結局、その犬は明け方まで何となく僕の近くにいた。

別の晩も、また別の晩も、ちがう池へ出掛けていってキャンプした。

しかし、現場に行くと、いつもその犬がいた。

道中にはいないのに、現地にはいる。

しかも、たまたまそこにいたような顔で、こちらに興味なさそうに、近づいても来ない。

なのに大抵明け方までいる。

そこの農場を去る数日前のこと、いつものように夕食後コテージを出発してブッシュを歩き始めた。

もうその頃にはわかっていた。

あの犬が遠巻きに僕についてきていることを。

時々だが、歩いているとき、遠くに彼女の気配がある。

僕は結局一度もその犬に触ることはないまま次の農場に旅立った。

ただ、よく考えると、いつも一人きりのブッシュキャンプは、

実は1度も一人きりではなかった。

だから小心者の僕でも

安心して眠れたのかもしれない。

                     07/9/2



第10話

-------SWINGしなけりゃホンキースじゃない-------

僕はお絵かきの教室中、必ず音楽をかけている

といっても子供達のご機嫌取りのためではない

むしろ自分のためである

だからすべて僕の好きな曲で、ほとんどがJAZZ

たまにロックンロールやクラシックもかけるがそれも僕の気分次第

僕は朝から晩まで、ほとんど音楽と共に暮らしている

だから当然僕の家族も愛犬たちも大音量のサウンドにももろともしない。慣れてしまっている。

大好きなROLLING STONESを聴きながらダイナミックな絵を描くのもいいんだけども

今までの経験からすると、やっぱりJAZZがいいようだ。

それもSWING。

しかも古い録音のやつなんかいいみたいで、1930年ごろのモノラル録音のBIGBANDなんかしっくりくるようだ。

たとえばデュークエリントンやグレンミラーオーケストラなど最高。

ボーカル物もよくかける。僕が一番好きなナットキングコールなどは教室の雰囲気を

しっとりとさせたい時に選んだりする。それに先生の僕が機嫌がいい。

軽快にやりたいときはハイテンポのSWING!ルイ・アームストロングやペギー・リーやエラ・フィッツジェラルド、

ちょっとニューオリンズのブギーなんかでファッツ・ドミノ!

最近の人だと若手JAZZギタリストのジョン・ピサレリ。特にビートルズのカバーは教室に合っている。

いずれもみんなSWINGしているナンバーだ。

はじめは変な昔の音楽にぶつぶつ言っている生徒もいたけど、子供は環境にすぐ慣れる。

っていうか、歴史的にいい音楽を聴きながらアートできるんだから悪いわけはない!

と思う。

子供達に、こいつら何かわかんのかな?

とか思うときもあったけど、今は何にも気にせず音楽をかけている。

たまに音楽好きな父兄から、子供にあのような音楽を聴かせて創作させていることを感謝されたりする。

ただ、それは大人の価値観だから当の子供達本人の感想はわからない。

子供達は誰も何も言わない。もう絵とJAZZがセットなのは教室ではむしろ当たり前のことだから・・。

この子達が成長してゆく過程で、たとえば思春期や、親から離れて1人生活したときとか、

ひょんなきっかけで耳にした古い音楽にぴんときて、

「これ子供の時絵を描きながらよく聴いたあの曲・・」って思って、

またちゃんと聴きたくなったりしてくれたら最高だなあ・・とか勝手に思ったりしている。

多分その時僕はもう近くにいないんだろうけど・・

ところで、教室にもう4年以上来ている女の子がいる

相変わらず流行に関係なく、懲りずに同じ音楽をかけているホンキースで、

その3年生の娘が絵を描きながら、ある日

キャブキャロウエイの名曲「ミニーザムーチャ」を口ずさんでいるのを聞き逃さなかった!

まじめに嬉しかった。

彼女、そういえばSWINGしながら描いてたっけかな・・??

                            7月10日



第9話

数年子供を教えてみて

ひょんなきっかけから

都会のサラリーマンだった自分が信州に来て

気がついたら5年もホンキースをやっている

なにもわからず始めた教室 

その日その日が冒険でした

たいていの職業は 2年くらいで慣れるもの

でも未だによくわかりません

考えすぎたなって思う日

力入れすぎたなって思う日

適当だったかな・・って思う日

パターンがあるようでない子供達

しかもちっこいのに性格はバラバラ

バラバラなのに何かが常に共通している

未だホンキースにはマニュアルらしいものができていない

ちゃんと記録と分析・統計すればそれっぽいものもできたのかもしれないけど

どうせ作ったってそんな物見ないだろうし・・。

企業に勤めていた頃は 毎日難しい会議があった

大人達の大変難しい会議でした

今は難しい会議はありません

でも、子供達は全く思うようにいきません。

きっつい一言にズバッとやられたり

そっぽむかれたり

案外ショックです

ただ、いい時は本当にいい

彼らの表情や一言に泣かされる

なにもわからず始めた教室 

5年やってもたいして何もわからない・・

                     

  

                               07/6/4


                
        


第8話

ありのままを見る目

幼い子供ほど

ありのままを見ることができる

それがなんだか意味が分からなくても

ありのままの真実だけを見ている

年齢を重ねるごとに

それらの意味が分かってゆき

同時に抽象的なニュアンスや解釈を教えられる

そして真実がぼけてゆく

だから大人は

大抵の場合、たくさんのものがぼやけた世界で上手に生きている

この、ある意味当然のような生きる方法に

いやけがさす時が来るなら

出来るだけ早いほうがいい

もう一度幼い子供の頃の

純粋で、ありのままを見れる眼がほしい

でも、大人にはもう無理なのかな・・。

 06/12/8
                     

      

                 



第7話

--------中秋の名月-------

中秋の名月。夜遅く・・
うまく晴れたのは信州だけ・・?

庭に出て南東の空を見上げると本当に見事だった。
で、椅子を持ち出してビールを飲みながら月の光をじっくりとあびていた。

1時間くらいたった頃、蚊に刺されてあちこちかゆくなってきた。

ふと右横を見るとオオカミがいる。いや
うっすら月明かりに照らされた僕のゴールデンだ。

結構前から来ていたようで、すでに寝入っている。

思わぬ仲間がいて、ちょっと嬉しくなってもうしばらく月を見ていた。

15分位して短パンの足が何カ所も蚊に刺されて我慢できなくなった。
もう家に入ろうかと思って腰を上げたら、いすの右横にまた何かいる。

ぼっと月明かりに照らされたうちの猫だ。

ふせして月を見ている、そして次にゆっくりと僕を見た。
その瞬間は、僕にとって意味深いシーンだった。

そして猫はまた夜空を見ている。

9月11日の夜更けに、

このような時間があったことを秘密にしておくのはちょっと無理だ・・

                   06/9/12
                        

 ※某サイトに連載していた過去の作品から選出掲載



第6話

--------習い事-------

先週の駒ヶ根福祉センター教室が、センターと講師との連絡ミスで、
施設がお休みであるのに、知らずに私達も生徒さんも来てしまいました。

夏だったら、どっか気持ちのよいところにお散歩がてらスケッチでも出来るのですが、外は2月。
結局、お休みにして、帰ってもらいました。

自分の子供時代のことを思い出すと、
習い事が臨時休校になったら、とてもラッキーな気持ちになり、
ウキウキ気分で、どっか遊びにでも行ったはずです。

しかし、先週のホンキースの生徒達は、
ほとんどが、がっくりな顔をして、後ろ髪引かれるように帰りました。
中には半べそ顔の子供もいたりして、
なんだか本当に申し訳なくなったのでした。

・・・この子達、本当に楽しみにして来てるんだ・・・

そう思うと、嬉しかったですが、いや、本当にそれで良いのか?
などと思ったり、でも、

・・・イヤイヤ来たって絵なんか良いモノ描けるわけないのでそれでよし。・・・
と結論づけ納得。


ところで、今はいませんが、たまに上記とは違う生徒さんが入ってきます。
いやいやというか、やっつけ仕事でホンキースに来ます。

いえ、まんざらいやでもないのでしょうが、
ホンキースの前後にすでに習い事があるため、
やりたくても集中できず、前後のお稽古の時間や宿題を気にしてばっかりいます。
「先生今何時?描いたからいいでしょ。もう時間だから行っていい?」
廊下でお母さんが、次の時間を気にして不機嫌そうに待ってます。

「そりゃ大変だねえ〜、体壊さないようにね。」と言って先に帰したりしますが、
当然いつも疲れた顔をしています。
というか実際疲れています。

いくら絵が好きで入ってきても、これでは楽しめないし、
結果、案の定やめてしまいます。

やめたくはなかったのでしょうが、あまりのハードスケジュールに耐えられず、
休んでも害のなさそうな、お絵かき教室ばかり休むため、
お母さんが月謝がもったいないと考え、結果やめさせるのがパターンです。

皮肉に、そんな子に限っておもしろい絵を描いていたりします。

逆に、ホンキース以外に習い事なんかしていない子も沢山いて、
そんな子は、当然週末のお絵かきが楽しみなようです。

全力で描いて帰ります。
しかも教室が終わってもみんなだらだら遊んでいて帰りません。
お母さんにうながされ、
最後に先生の車に乗っているゴールデンレトリバーのこごみをひとしきりかまって
ようやく帰ります。

今はそんな感じの子が多く、
先生も気にせず楽しんで教えています。

楽しく、エキサイティングに、アートが学べて、
学校とはちょっと違う、数字で評価できない、習い事。

そんなものってないよなあ〜
と思っていた子供時代。

じゃ、自分で作ろうかな・・
と思ったこの教室。

少しは自分の理想に近づけたかな。

                       





第五話

いつも犬がいる1つのケース


私の家庭は昔から動物と共存していました。
両親ともに動物好きなので、当然私も大人になってからもそのような生活をしています。

特に犬は完全に家族であり、親友なので
ここ15年くらいは、なるべく一緒に行動するようにしています。
私の犬との生活は一般の家庭からすると想像しにくいかもしれません。
食事も寝るときも一緒だったりします。

大型犬をいつも連れて歩くのは、人からすると
大変な苦労に見えるかもしれませんが、
やっている本人はどうってことなく、
というより、逆にいつもそばに相棒がいるのは心強いものです。

しかも犬がいるとどこでも楽しくなる気がするのです。
それは僕だけなのかな・・?

先生がそう思っているものだから、親愛なるホンキースの生徒達にも
できれば授業は犬と一緒に受けさせたいと思っています。

私がこんな話をすると、みなさん嬉しそうに聞いてくれますが、
中には「うちは犬が嫌いな家系なのだから、困るな・・」
とか思っていらっしゃる方も時折いるのも知っています。

私の経験上、生まれつき犬が嫌いな子供など、まずいないことも知りました。

犬が子供の脳にもたらす影響とか、情操教育に効果があるとか、
障害者や老人にいいとか、(以前は犬たちと施設にも訪問していましたが)

あらためてそんなことを論ずる気は、さらさらないです。

ただ毎週、教室の子供達が、連れてきた私の犬と遊んでいる姿を見ながら、
少なくとも、

ここに子供達がいて、犬がいる。
「両者は、今週もここでまた逢えたことを歓迎している」

という事実を確認し、

私もまた嬉しくなっているのでした。

                05年7月5日

                     
 

                 



第四話

-------「杜の市」-----

ホンキースの皆、杜の市お疲れ様!!
ご家族の皆々様も、多大なご協力ありがとうございます!!
講師揃って御礼申し上げます。

何週間にも渡って準備してきた成果が、あの二日間に存分に発揮できたはず。
日曜日のパレードは最高だった。
実行委員やお客さんからもリアクションがあったし、写真も沢山撮られたね。
これも全て、君たちのパワーのせいだ。
勿論、先生も頑張ったけど、
あの大きな会場と沢山の人の中ではホンキースのトータルパワーが何よりも大事だった。

「芸術部族ホンキース」というテーマにして本当に良かったと思う。
先生の考えを言うと、「芸術」と「部族」というのは本当は、全然違うタイプの言葉なんだ。
というのは、「芸術」って皆それぞれのスピリットの産物でしょ。
そして、「部族」っていうのは個性が埋没してしまう単位なんだ。
ずーっと昔からの決まりごとがあって、それを壊してはいけない雰囲気だから。
いわゆる「部族」の中って、例外がなかなか認められないからね。

でも最後に「ホンキース」がつくと、そんなことはおかまいなし。
みんな自由にやってくれて、よかった。
クオリティーも高かったよ。

そこで、考えたんだ。
「芸術部族ホンキース」の伝統を作ろうと。
それは、個性を潰さない伝統でなければいけない。
じゃあ、何か?
それは。
「最高を目指せ!」

先生の経験上、最高のモノはなんでもアグリー(AGREE)できる性質を持っているんだ。
自分の好き嫌いじゃなくね。
これは、「クオリティー」と言ってもいい。つまり、「品質」ね。
君達の才能は無限にある。
だからこそ、「品質」こだわって欲しい。
いいアイディアを徹底的に磨いて、思考して完成させてくれ。
そして、出来上がったものは君たち自身の「世界観」だ。
それを先生達にも是非見せてもらいたい。

そこには絶対、皆で共有できる感動がある。
今回の杜の市で先生は、それを確認したんだよ。

 

特別講師:fuchida




05/6/7




第三話

-------「五感と個性の形成について」-----

人の持つ五感。

それはもちろん、耳、鼻、舌、肌、目で感じるもの。
その内、目で集める情報が一番多いのだそうです。
だから日常の多くのことを目に頼っているといってもいい。
例えば、ドアノブを捻るという何気ない動作でも
ノブまでの距離や形、動き方など色々な視覚情報を合わせてこそ
できる結果ということらしいんです。
そうなると、歩くことや自転車、車に乗ることって本当にすご
いことですね。

絵を描くことも基本的には目を使った動作。
絵を描くことをちょっと堅い言葉でいうと、
「形態把握」と「形態賦与」と言うことができます。
少し軟らかくすると、
目で見たモノを頭の中で処理・記憶して、紙の上に移し換えるワザ。
図式では、目→頭→手 となります。
さらに実際では手で描いた絵をまた目で確認するのですから、
目→頭→手→目 ということになるのでしょうか。
やはり、目の働きがキモと言えそうです。

でも、「見る」とはどういうことでしょう?
線と面と空間、色彩とそれらの関係を映像として理解するとい
うことではあるのですが、
何を見て、何を映像として頭に記憶するかはまた別の問題です。

よくあるのは、
同じ景色を見ていても、認識しているものは人によって千差万
別ということ。
それはある意味、景色の中の情報を選択しているということです。
一口に「見る」といっても、私にはそこに深い意味があるよう
に思えてならないのです。

では、選択の基準は何なのでしょう?

なかなか難しいことですが、
経験や知識、そして感情が無関係ではないでしょう。
この全てと言えば、かなり答えに近いのかもしれません。
だからこそ、子供達には色々な経験と知識を身に付け、喜怒哀
楽の感情を知って欲しい。
沢山の選択基準を作って、世の中を広く深く「見て」、沢山の
ことを認知できるようになって欲しい。
そして、沢山のことが認知できると、そこに好奇心が生まれて
くるのではないかと思います。
さらに、認知したことの断片をつなげると想像力の大きな手助
けとなるのではないかと思います。
実は、そこに人生の豊かさがあるのではないでしょうか。
少なくとも私はそう信じています。

目から始まった話ですが、他の感覚についても本質は同じであり、
五感を通じて認識したことを統合すると、個性や世界観の核と
なると言えましょう。
絵を描くことって自分の世界観を表明することに他なりません。

実際、好奇心を持った子供の目はキラキラ輝いて、
未知の世界観を持った驚くべき絵を見せてくれることがあるんです。

その世界観を表すためのちょっとした工夫を先生達は教えているのです。


05/2/20



第二話

-------具は多い方がいい-----

教室に来る子達は、皆様々な個性を持っている。

一週間のエピソードを我先にと、先生にしゃべり出す子
・相変わらず無口で、ひたすら絵に没頭して帰る子
・絵は二の次で、教室の雰囲気を楽しむ子
・お母さんにとりあえず行って来いと言われてそうな子
・用もないのに先生を離さない子
・先生に来てほしいけど、それらの子に圧倒されて引いている子
・小さいのに周りに気を遣う子
・何となくリーダー的存在になる子
・課題によって、まったく集中度が異なる子
・とにかく驚くほどうまい子

まだ生まれて5〜10年前後の、子供達なのに、まさに千差万別。

きっと、このそれぞれの個性は、
「家庭の影響より、生まれもったものがほとんどなんだろうなあ」
と、しみじみ感じる。

そしてお父さんお母さん達は、
簡単に自分たちが思っているようになってくれない
自分の子供の個性に手を焼いているのかもしれませんね。

子供達は生まれついての素朴なアーティスト。
ここでは「シェフのたまご」と言っておきます。

たくさんの経験は、たくさんの具材を与えることになり、
全部使おうが、2〜3品だけ使って後は捨ててしまおうが、
シェフの自由。
問題は、「できあがりがおいしい」ってこと。

子供のうちにいろんなところに連れていって、
いろんな人や動物に合わせて、
良いこと悪いこと、様々な体験をさせてあげましょう。

多すぎて悪いことは決してない。
習い事だってそう。
わたしも子供の頃、様々な習い事をさせられました。
結果、続いたものは何もありません。
でも、それらを経験したことは大事な事実でした。

要するに「私の人生の具」すなわち「個性」なのです。
だから今、絵ぐらいならなんとか教えてあげられるのかもしれません。

でも子供にとって、大人ってみんな先生なんですよね。
たぶん。



                  05年1月21日

                  

                   
                        

                 



第一話

-------子供の自己表現について-----

ホンキースの生徒の多くがそうであるように、
絵を描くのが好きな子供にはおとなしく無口な子が多い。

もちろん多種多様ではあるので、そうでない子、
むしろおしゃべりな子だっているのだが、静かな子が圧倒的に多い。

しかもシャイなのでうちとけるまでにとても時間を有する。
まあたいがい2〜3ヶ月すれば自然となついてくるもので、そうなると子供はやはりむじゃきでかわいいものである。

お母さんの中には、無口な自分の子供に不安を覚え、対外的に将来を心配したりするケースもあるようだ。

しかしそんな心配は必要ない。
なぜなら先生である私自身が、昔そんな子供だったのだから。

私はいまでも本質的には十分暗いのだが、それでも一応まともに人と話せるくらいにはなっているし、
以前は大きな会社で毎日会議に出て、たくさんの人の前でしゃべらされていた。
まあ、苦痛ではあったが・・

そんな私の過去を振り返った感想は、
「人とうまくしゃべれることとは、生きてゆく上での1つのツールにすぎない」ということ。
そのツールを大人になる課程のどこかで拾ったんだと思う。

自分は子供の頃からまるで変わっていない。
会話をスムーズに行うツールを見つけただけで、なにも変わっていない。

子供達もみな、どこかで見つけるに違いない。
絵を描いたり、詩を書いたりするのと同様に、
またひとつ自己表現する方法を身につけるだけである。

                 

                  04年12月15日

                  

                       


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